小幡篤次郎は、福澤諭吉と同じ中津藩士の子として生まれ、福澤に乞われて元治元(1864)年に入塾して以来、短い期間で英語力をつけ、慶応2年には幕府の開成所で英学を教えるようになった福澤門下きっての逸材です。


慶応3年ごろの小幡篤次郎(松山棟庵と)


福澤諭吉とともに西洋文明を紹介する文献を翻訳し、慶應義塾の維持運営に尽くしました。同時代においては、福澤諭吉あるところに小幡篤次郎ありと評され、「学力」は1歩先んじていたとまで言われました。
冒頭の「天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らずと云えり」があまりにも有名な『学問のすゝめ』初編ですが、実は福澤諭吉と小幡篤次郎の同著となっています。


また『文明論之概略』緒言で福澤は、「就中、小幡篤次郎君へは特にその閲見を煩わして正刪を乞い、頗る理論の品価を増たるもの多し」と小幡の校閲をうけて議論の質が向上したことを述べています。


『学問のすゝめ』初編


福澤諭吉とともに西洋文明を紹介する文献を翻訳し、慶應義塾の維持運営に尽くしました。同時代においては、福澤諭吉あるところに小幡篤次郎ありと評され、「学力」は1歩先んじていたとまで言われました。
冒頭の「天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らずと云えり」があまりにも有名な『学問のすゝめ』初編ですが、実は福澤諭吉と小幡篤次郎の同著となっています。



あまりに福澤と一体化してしまったのか、これまで伝記や著作集が編纂されたことはありませんでした。今回初の著作集刊行となります。ぜひご一読ください。